カフカの「変身」に見られる恐ろしさ

 こんにちは。東進フジグラン丸亀校の村上です。

6月に入り、梅雨らしい気候になってきました。こう湿気が多いと、気温以上に暑く感じますね。こんな日には、ちょっと怖い話、不気味な話を読んでみたくなりませんか。

※ここから先、カフカの「変身」のネタバレを含みます。これから読みたいと思っている人はブラウザバック推奨です。

 フランツ・カフカの「変身」は、不条理文学と言われる名作です。主人公であるグレゴール・ザムザがある朝気が付くと、巨大な害虫の姿に変身しているところから物語が始まります。まず読者の度肝を抜くのは、主人公がなぜこのような姿に変わってしまったのか、一切説明がなされないところです。何もわからないまま、誰にも救われないまま、なんだか後味の悪い結末を迎えます。

 

 しかし私は、この作品の最も恐ろしいところは、そんな不可解で不条理な事件そのものではなく、その事件を前にした家族や周囲の人たちの「リアルさ」だと思います。家族の一員が突如として虫になってしまうという非現実に対して、魔法を使うでもなく、奇跡が起こるでもなく、ただただ現実的に状況が進んでいきます。主人公にとってはあまりに薄情な仕打ちと思われるかもしれませんが、冷静に考えると、誰でも自分が父親ならこうする、自分が母親なら、妹ならきっとこうするというありきたりな対応を、彼らはしているに過ぎないのです。誰も主人公のことを恨んでいる人はいません。不条理に巻き込まれながらも生活がかかっている家族の生々しい在り様が、この作品の不気味さをより一層際立たせている気がします。

       

 興味深いのは、主人公の家族、例えば妹の視点に立って作品を見てみると、不思議とそこまで悲劇的ではないということです。兄に起こった不可解な事件に対して、初めは戸惑い、恐れるけれども、それをきっかけに自分も働き始め、安楽椅子で寝てばかりだった父親は若返ったかのように活き活きと仕事へ出かけるようになりました。引っ越しを決意した場面は、まるで家族がひとつになって困難を乗り越えた後のようです。いっそのこと妹を主役にしてしまえば、どれほど後味のいい話になるでしょうか。

 

 結局のところ、私たちは自分の人生の主役であって、他人の人生の脇役でしかないのです。当たり前のようですが、難しいことでもあります。他人の人生に依存して生きていないか、他人の人生をコントロールできると思い込んでいないか、この作品からはそんな問いかけをされている気がします。「家族のために」という一心で嫌々働いていたグレゴールは、自分の人生の主役になることができず、家族の人生にとっても主役になることができなかったのです。

 後味の悪い感想になってしまいましたが、これも作品へのリスペクトということで、堪忍していただければと思います。

 

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